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国立マンション訴訟・明と暗 

2012/04/23 19:32

 

ユーチューブ 五十嵐敬喜:上原公子 市民公開講座の映像

2012年3月28日 法政大学大学院にて録画

 

http://youtu.be/y9M3hHi3LYQ

 

国立マンション訴訟というと、何を連想するだろう。多くの人は、美しい学園都市"国立"の景観を守るために、市民や市長が立ち上がって、デベロッパー側に高さ20mを越える部分の撤去を裁判で勝ち取った市民自治の画期的な出来事、そしてこの事件を契機に日本の各自治体において景観法策定の動きが拡がったと記憶しているのではあるまいか。

しかし、今国立市の現実の姿や市民の生活環境をじっと見つめる時、それが間違っている認識であることに気付かされる。確かにどんなことにも明と暗がある。実際、美しかった国立の景観は、どんどんそうでない方向に流れているように見える。今や景観法の精神は、国立の大学通りという限られた地域のみに限定的に適用され、それ以外の地域は、無原則な開発が着々と進められているのが現実である。

例えばかつてそよ風が通ると呼ばれた旧国立駅舎は高層化され、新しい駅舎の北側にへばり付くように高層マンションが建設されてしまっている。次々とドイツのゲッチンゲンをモデルにした学園都市の景観は破壊されつつあるのだ。

一方、かつて、景観法の生みの親として日本中の注目を浴びた元国立市長上原公子氏は窮地に陥っている。あろうことか、高層マンションを建てたマンション業者は、上原氏と国立市に4億円の損害賠償訴訟を起こし、減額されたものの、2千5百万円の支払いが最高裁で確定し、国立市はこの金額を業者に支払ったのであった。ここから問題は、さらにややこしくなる。当の高層マンションに住む住民が行政訴訟を起こし、国立市に損害を与えた上原個人に、国立市が支払った賠償金と金利を支払えというものである。(注:実はマンション業者は、国立市によって支払われた損害賠償金は、そっくりそのまま市に寄付している。)当初、上原市政を受け継ぐ市長が誕生したものの、その後選挙で、上原市政に批判的な市長が選挙によって選ばれ、市によって訴えられた元上原市長には、賠償金の2千5百万円にその間の金利が合計され3千万円の支払いが求められている。実に理不尽な事件である。

この問題の奥には、地方自治法の改正があるようだ。市民が、公共の利益を度返ししたような政治家や行政に対し損害賠償を提訴できる仕組みは必要だ。だが、それこそ安易に政策や違憲の異なる政治家や行政機関に、何でもかんでも訴訟を仕掛けることは、民主主義的権利の乱用になることは自明だ。そんなことが頻発すれば、政治家や行政官庁の職員になる人物などいなくなってしまいかねない。

 

そこで五十嵐敬喜教授は、マックス・ヴェーバーの古典中の古典「職業としての政治」の概念を引きながら、改めて"政治家とはなにか"、"それはどんな職業で"、"政治家の責任とは何か"、"どの範囲に及ぶか"を検証し、上原公子氏には、その政策決定過程においても、政治家としても違法性のないことを論証する。五十嵐氏によれば、これは単に上原氏一個人の支援のためだけで行った論究ではないということだ。それは五十嵐氏の言によれば、「自らの政治信条と政策理念に基づいて行動した政治家の責任やその範囲を、2012年という現在において、確認することになる」とのことであった。

 

 

 

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学園都市「国立の桜」を視て思うこと

2012/04/05 19:07

 

国立駅北口にへばりつくように建てられた高層マンション。駅舎も建て替えられた。学園都市国立が変わりつつある・・・】

 

爆弾低気圧が吹き荒れた翌日の4月4日、国立の桜を撮ろうと現地に向かった。台風一過ならぬ「爆弾低気圧一過」で晴れ上がった国立の桜は、まったくに負けずに咲いていた。

国立市は、ドイツの学園都市「ゲッチンゲン」をモデルにしてまちづくりがなされた美しい学園都市である。周辺には一橋大学や都立国立高校、桐朋学園などの学園が国立駅南に伸びる大学通りに点在している。大学通りは、40mを越える幅員があり、そこに9mの緑地帯が設けられ171本の桜と117本の銀杏の木が植えられている。しかも桜は、ソメイヨシノだけではなく、山桜やベニシダレなど、多様な種類の桜が植えられている。

最近では、車道側に自転車専用路面も設置されているなど、およそ日本の街とは考えられないような都市づくりがなされてきいて、大学通りは「新東京百景」にも選ばれている。

4月初旬ということもあり、親と一緒に入学式に参加したような初々しい景色がそこかしこで見られた。一橋大学では、部活勧誘の看板があちこちにあった。

少し残念なことをしゃべろう。日本有数の美しい学園都市「国立」が変容しつつあることを感じた。駅周辺に高いマンションがやけに目立つようになった。瀟洒(しょうしゃ)だった駅舎も建て替え工事が進められていて、オレンジ色の三基のクレーンが駅舎に生えたツノのように見えた。特に気になったのは、北口にへばりつくように建築された高層マンションだ。この建物は、国立駅周辺の景観を台なしにしている。また大学通りを南に歩くと存在する明和マンションとその前にある歩道橋の存在は、国立の景観を著しく損なっていることは否定できない事実である。

 

 

【桜が咲いても国立らしからぬ景色はやはり問題だ!!】

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追悼 吉本隆明と自立 3 吉本隆明と三島由紀夫

2012/03/22 18:11

 

3 吉本隆明三島由紀夫

 

吉本隆明氏の時代性ついて、同時代(戦中派)の小説家三島由紀夫との比較で考えてみたい。吉本氏は、大正14年(1924年11月25日)東京月島に生まれた。当時の自分自身を、軍国主義少年だったと、機会あるごとに語っている。ちなみに小説家の三島由紀夫は、学年的には、同じ大正14年生まれ(生年月日は1925年1月14日東京四谷生まれ)で同学年である。

吉本氏が17歳の時、日米戦争(1941)は始まった。この頃は東京府立化学工業学校応用科に席を置いていて、同期生らと「和楽路」という出版していた。18歳で、山形県米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)に入学。ここでも回覧雑誌「からす」を創刊している。19歳(1943)で、宮沢賢治や小林秀雄らに傾倒し本格的な詩作や評論活動を開始した。20歳(1944)の時、米沢高等工業を繰り上げ卒業し、東京工業大学電気化学科に入学する。この頃、日本の敗色は濃厚となり、21歳(1945)となった吉本青年は、空襲が激しい東京を離れて徴用動員という形で富山県魚津市にある日本カーバイトに向かう。これは事実上は疎開と考えられる。この時、同期の友人に送った手紙に以下のように書いている。

「・・・化学の勉強と詩の勉強を一心ふらんにやりたいと願います。化学は日本の国のために、詩は遺言として。矢張り愚かですが、俺が頑張らなければ日本の国は危ないと信じます。自分ひとりのいのちは捨ててもいゝと思います。唯現実が自分に悔ひない道を開かしめ給へと念ずるのみです。さようなら元気で頑張って下さい。僕は国史をしっかりと血をもって知り、神ながらの道をほんとうに信じてゐます。あゝ僕のゆくみちに光あらしめたまへ。隆明・・・」(「現代詩手帖」1972年8月臨時増刊「吉本隆明」掲載の年譜より)

軍国主義教育の中で育ち、戦争の惨禍が東京にまで及ぶに至って、自分の命までも差し出す覚悟をしながら必死で生きている心の葛藤がひしひしと伝わってくる文章だ。

吉本氏は、理系ながら、文学を好み、創作活動を早くから開始した。またに身体的には、子どもの頃から、頑健でいじめっ子だったと語っている。一方、同じ学年の三島由紀夫はどうか。三島は、学習院中等部時代から創作を開始した早熟な文学少年だった。昭和20年(三島20歳)には、学徒動員に伴い、死を覚悟して遺書を書いたものの、小柄で虚弱な入隊検査で不合格の診断が下り、この時の敗北感が三島の生涯に強い陰翳を残した。三島はボクシングや剣道、ボディビルなどに興じて肉体改造に取り組み、後に三島の固定的なイメージとなる強靱な肉体を手に入れた。

吉本氏と三島由紀夫の世代の特徴は、ふたつある。ひとつは極端な軍国主義教育の中で育ったこと。もうひとつは戦後、アメリカ民主主義の急激な注入によって日本社会全体が180度変わったということである。

戦後吉本氏は、23歳で大学卒業(1947)後、創作活動をしながらも労働運動に身を投じ、マルクスの著作に触れ、左翼活動家へと変貌を遂げていく。一方三島由紀夫は、吉本と同年に東大法学部を卒業し大蔵省に入省したが、1年後には退職を決意し、小説家として生きていく道を選んだ。三島の思想信条や政治的主張は、吉本氏とは正反対の日本という国家の根底にある天皇制という文化の連続性を守るという主張である。

さて、ここからが今日の議論の核心である。日米安保条約というものをめぐって日本の世論が左右に分かれた。吉本氏は、日米安保に反対の立場をとり、デモ隊として国会に突入した。一方三島は、60年安保条約の折りは、政治的立場を明確にしていなかったが、世界的な反体制運動が日本にも押し寄せていることに危機感を抱き、民族派学生を中心として、「楯の会」(1968ー1970)を組織する。三島は、東大闘争の際、安田講堂に立て籠もっていた全共闘の学生等の中にひとりで飛び込んで論争を展開したこともある。

ここでの興味は、同じ時代に生を受けたふたりの作家が、左右別々の道を歩いていることだ。60年安保で政治活動をした吉本氏が七〇年代に向けて、書斎に籠もって自らの思想を深めて行った。これに対し、60年安保で傍観者的な立場を貫いていた三島が左翼運動が日本の文化の連続性を阻害するとして、政治行動を積極的に開始した。

そして1970年11月25日、三島は市ヶ谷の自衛隊に突如として侵入し、自衛隊の存在の曖昧さについてバルコニーまで出て自衛官に檄を飛ばし自害して果てたのであった。三島の行動は、日本社会を越えて世界中に衝撃を与えた。

ふたりの寄って立つ立場は、まったく違うように見える。しかしその創作過程を振り返ってみると、ふたりが汲み取ろうとしたものは、日本文化の奥にあるエッセンスの抽出という意味で、その差異は以外など小さい。ふたりの違いは、ふたりの個性に基づもので、源氏物語の紫式部と枕草子の清少納言ほどもないかもしれない。

吉本が60年安保の挫折後、自らが創刊した「試行」誌上で開始したのは、日本の和歌や近代短歌に至る詩歌の研究。源氏物語など日本語という言語の持つ美の抽出であった。これが「言語にとって美とは何か」として結実する。またフロイトの精神分析学の吉本的受容ともいうべき「心的現象論」を書きながら、自分の言語世界に、精神分析学を固着させる試みを行った。共同幻想論では、日本民俗学の柳田国男折口信夫の学問的成果を踏まえながら、古事記などの古典を分析して、日本人と日本文化の古層に分け入って、個人意識が対幻想を生み更に「共同幻想」として成立していることを神話的に表現した。大事なことは、この三つの「言語にとっての美とは何か」、「心的現象論」、「共同幻想論」思想書が、外国の翻訳概念ではないということである。またその思想に到達するためのテキストのほとんどが日本の古典作品であるということである。

どこかで三島由紀夫も共同幻想を読んで、教わったと語ったということを聞いたことがある。三島がそのように語ったのはおそらく本当だろう。一方、吉本氏は、三島由紀夫という小説家について、このように言っている。

「三島さんのやった業績、文学的な業績だけが問題であって、イデオロギーというのはあまり問題にはならんだろう。ただ、ああいう優れた文学者が出てこないと世界はあらたまることはなかろう。」(埴谷雄高 対談 吉本隆明「意識 革命 宇宙」河出書房新社 1975年刊)

常日頃、人間の死に方について、「知らせる死、知らせぬ死」のふたつがあると語る吉本氏は、三島の演劇的な死(知らせる死)が嫌いだったようだ。 

そして三島由紀夫が亡くなってから42年後の春、戦中に生まれた同級生吉本隆明氏も、ひそやかに逝ってしまったのである。

 

つづく

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追悼 吉本隆明と自立 2 吉本隆明氏のイメージ ニュース記事に関連したブログ

2012/03/19 12:40

 

2 吉本隆明氏のイメージ

 

吉本隆明氏の講演にはじめて行った時のことを思い出している。確か71年か72年の6月5日のこと、渋谷の教会だったと思う。どれほど、舌鋒鋭い人物かと緊張していると、筋骨逞しい肉体労働者風のおじさんがそこにいた。当時、47か48歳の吉本氏だが、その口からもれる言葉も流ちょうというものではなく、朴訥なしゃべり方だった。おまけに少し照れ屋のようで、しばしば頭を掻いては、落ちた頭髪をテーブルから払う仕種をして、結構普通のおっさんだな、と思ったりした。

その時の話は、転向問題、組合問題などだったと記憶しているが、今でも、心にはっきりと残っている言葉がふたつある。ひとつは、組合運動というものは、堕落するものであり、その場合体制内御用組合ができてしまうが、戦闘的な第二組合の創設が必要だ、というもの。もうひとつは、おそらく三島由紀夫の割腹自殺に触れて語った時に言った「ひとが命を賭けて何かをしようとする時には、それをじっと視るべきだ」という言葉であった。

吉本氏のもっとも社会に対して発信力や影響力があった時期は、見方として全共闘運動や東大闘争華やかなりし六〇年代後半から七〇年代中盤頃というひとつの見方がある。確かに、混乱した日本社会に向けて、吉本氏は独自の視点から、鋭い批判を加え続けた。彼の一貫した主張の柱は、知識人のあり方の問題であった。またその知識人が持つ知識が通り一遍のものでは、社会情況に良い変化をもたらしうる力にはなり得ないという強い信念であったように思う。要するに、人の学問を単に拝借して、あたかも自分が主張したかのように語るようなものではいかん、という明確な態度が、彼の言葉の端々に感じられた。

それは、60年安保の挫折以降、組合活動家を辞めて書斎という新たな闘いの場に籠もって己の内面のから見つめ直し、「言語にとって美とはなにか」で、言葉そのものの価値や、そこから人がその言葉を再構成することによって、どのように文学が派生してくるか、という根源への問いかけを行ったこと、さらにその文学を誕生させる人間の心の動きの解析である「心的現象論」を書き、ついには「共同幻想論」で、一個人の心というものが、どのような変転やインパクトによって、ナショナリズムを生み出すのかという生成の秘密を解読することに至った営為から来る自信のようにも思われた。

吉本氏は、長年の営為の積み重ねによって、己「独自の批評眼」を持つに至ったのである。

吉本氏は、自分自身を称して「庶民吉本」という言葉を発していたという。テレビも大好きだったようだ。「活動家」でもない「市民」でもない「庶民」という言葉には、吉本氏一流の身の置き方があった。一種のネットワークを遮断する結界かバリアのようでもある。またこの「庶民」という言葉の中には、八〇年代以降、「マス・イメージ論」などで、テレビメディアやポップカルチャーを論じる素地が出来上がっていたとも言えるだろう。

 

つづく

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追悼 吉本隆明と自立 1 ニュース記事に関連したブログ

2012/03/16 20:56

 

1 自立と共同幻想論

 

思想家の吉本隆明氏が亡くなった。戦後思想の最大の孤高の思想家が逝った。享年は八七歳。故人を偲び、自己の青春を思いだし、少しばかり吉本氏について書いてみたい。

私が吉本氏を知ったのは、七〇年代初頭、友人が持っていた「自立の思想的拠点」という装丁の立派な本を読んだことがきっかけだった。友人は、そんなに面白いならあげるよと言った。当時の吉本氏は、権威ある思想家をバッサバッサと一刀両断にする小気味の良さがあった。その鋭い言葉には「思想的エンターテイメント」といってもよいようなユニークさがあった。私はこの書を、貪るように読んだ。

吉本氏は、当時「都市の論理」を書いて権威に反抗する学生たちを応援した歴史家の羽仁五郎や井上清という大学者を徹底的にこき下ろした。その頃、早稲田大学に大学に講演に来ていた羽仁五郎氏と喫茶店に行った折り、羽仁氏が、ポロリと「最近吉本君は何を考えているんだろうね。俺は最近の彼を分からない」と漏らしたことを思い出す。

確かに、六〇年代安保の時、国会に突入したという行動の人だった吉本氏(当時36歳)は、東大闘争(68)や70年安保を経た七〇年代(46)に入ると、まったく別人のようになっていた。行動左翼から、思索する思想家へ、そこにどんな心の葛藤と軌跡があったのか・・・。

今振り返ってみると、吉本氏は他の思想家や政治イデオロギーを掲げる党派党派の言辞を聞いて行動する左翼的人物という地平から、個を確立するというところに最大の眼目を置いて「自立し思索する個人」を目指していたと思われる。

六一年、吉本氏(37歳)は、谷川雁や村上一郎と共に、「試行」という雑誌を創刊した。彼はこの定期刊行物というステージを得て、孤独の思想的営為を開始した。そしてその禅僧のような思索は「言語にとって美とはなにか」、「心的現象論」、「共同幻想論」として次々と結晶していった。

「言語にとって美とはなにか」(1965)で、吉本氏が行ったことは、言語としての日本語の美しさを探究することであったと思われる。しかしそれは、単純にプロレタリア文学や社会主義リアリズムを否定して、日本回帰するという思想的転向とは、まったく異なる自己の内なる言語世界への探求があった。

次ぎに完成した「心的現象論」(1965-1968)であるが、私はこの作品を、吉本隆明によるフロイトの精神分析学の批判的受容というべき作品と受け取っている。またこれは、日本語という言語を思索した吉本にとって、言語を操って、ひとつの作品を構成するに至る人間の心の動きが、どのようなものによって引き起こされるのかを解き明かしたいという論理的衝動によって出来上がった作品である。

「共同幻想論」(1966-1967)は、吉本氏の思想書としては最高傑作というべき作品だ。この作品によって、吉本氏は、個人という最小単位の人間(個=自己)が、伴侶(対)を持ち、家族を作り、これが集まって集落をなし、やがて国家社会(共同)を作るという循環を発見した。すなわち「個人意識」が→「対幻想」→「共同幻想」として増幅し、特にこれがファシズムのような過剰な「民族意識」として暴走する時もあることを示唆している。

この書の白眉は、「祭儀論」であろう。この中に、天皇の祭儀である「大嘗祭(だいじょうさい)」が分析されている。大嘗祭は、天皇が即位する時に執り行われる「祭儀」であるが、新しく天皇になる人物が、田の神と寝所に籠もり、擬制的に交わることによって、農耕部族の長になっていく祭である。何気なく執り行われる祭が、共同幻想を生み出す原動力になっていることを、吉本氏は非常に文学的に、しかも難解に著している。

この書の方法論として、私はマルクスの資本論がベースになっているのではないかと思った。つまりマルクスの場合「商品(個人=自己)」というものが経済社会で循環し「貨幣(対幻想)」となり、「資本(共同幻想)」として蓄積していく過程に、実に似ているからだ。

またこの共同幻想論の考え方から、個としての男女の愛(対幻想)が、過剰な民族運動(共同幻想)にも転化する危険があることを知らされた気がした。

 

つづく

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富士山は世界遺産になれるか!? ニュース記事に関連したブログ

2012/02/25 21:03

 

 

2012年2月23日、静岡県で開催された「富士山世界文化遺産フォーラム」に向った。当日の2月23日は、静岡では語呂合わせで「富士山の日」に制定されているらしい。それひとつをとっても、地元の静岡県と山梨県では、富士山のユネスコ世界遺産登録に向けて「世界遺産熱」が高まっていることを感じた。

東京の自宅を出る時は、大雨が降っていたが、小田原から新幹線に乗る頃には、雨も上がり、富士川の鉄橋を通過する時には、山頂に小振りな傘雲を纏った富士山が雄姿を現していた。ふと「富士山とは、何だろう?」という疑問が湧いた。富士山には、ふたつの見方があるように思う。「見える富士」と「見えない富士」のふたつである。そして日本人にとって意味深いのは、後者の「見えない富士」のように思える。

見えない富士。それは日本人の魂の中にある富士山のことだ。様々な神話や伝説、あるいは芸術に昇華された富士山は、日本文化の及ぶ社会で教育を受けた者にとって、母なる山のような存在となっている。

それでいて、富士山の山頂まで登る日本人は以外に少ない。言ってみれば富士山は、日本人にとって懐に入って甘える母なる山というよりは、遠くから崇める霊山のようにも思える。傍らの「広重の富士」(赤坂治績著集英社新書ヴィジュアル版2011年刊)という本をパラパラとめくった。小田原駅の三省堂で購入したものだ。浮世絵に描かれた富士山を見ながら、富士山が日本人が死後に還ってゆく「故地」のように思えた。古来より、日本には「山岳信仰」という考え方があった。日本人は、山に超自然的な存在あるいは霊的な存在と考えて、これを信仰の対象としたのである。後にはこれが仏教と習合して修験道も生まれた。富士山は、この山岳信仰の頂点ということができる。

この2月初旬、日本政府は、富士山が世界遺産に登録されるよう推薦書をユネスコに届けたのだが、富士山の世界遺産登録に問題はないのか。そこで、今回「富士山フォーラム」で、4人の権威が、富士山の世界遺産登録について討論するというので、静岡に向かったのである。

 



フォーラムは、松浦晃一郎氏(前ユネスコ事務局長)の基調講演で始まり、その後、西村幸夫氏(東大)をコーディネーターに、松浦氏、岩槻邦男氏(東大名誉教授)、五十嵐敬喜氏(法大)の四人でパネルデスカッションが行われた。

この中で、岩槻氏は富士山学の提唱。五十嵐氏は富士山法によって保全管理をすることを訴えた。松浦氏は、日本政府により富士山を世界遺産に登録する推薦書がユネスコに提出されたが、その内の構成資産25が、全部イコモスやユネスコで承認されるとは限らず、平泉の登録の前例を持ち出して、柔軟に対処することが必要と訴えた。また富士山周辺の自衛隊の演習場問題に関して、フランスイギリスアメリカでも構成資産周辺に軍隊の演習場があっても通った例があるので、注文は付くかも知れないが、決定的な問題にはならないのではという認識を述べた。

確かに、富士山の世界遺産登録には、さまざまな問題がありそうだ。私は思ったのは、以下の三点である。第一に25の構成資産の中には、世界遺産のレベルに達していない資産もあるのではという問題。第二に恒久平和を志向するユネスコ世界遺産条約の精神に反する自衛隊の演習場問題。第三に富士山信仰をユネスコの評価基準とどのように折り合いを付けるかという問題。現在は、ⅲ)、ⅳ)、ⅵ)だが、これが必ずしも説得力のある説明にはなっていると言えないのではと思った。

この評価基準との折り合いの問題を若干説明すれば、富士山を登録するの三つの評価基準は以下の通りである。

(ⅲ)とは、「 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」

(iv)とは、「歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。」

(vi)とは「 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。」

この三つの中で、一番分かり易いのは、(ⅵ)の適用だろう。それは北斎や広重の浮世絵などの存在が世界的にも有名であり、そのような芸術作品を生み出す源泉となったということは、動かし難い事実だろう。ただ、本来、世界遺産登録は、価値基準がひとつでも該当すれば大丈夫ということだが、このⅵは、「他の基準と合わせて用いることが望ましい」と添え書きがあるので、どうするかである。

本来、富士山の山容の美を単純な思考法に立って評価すれば、(vii)の「最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。」というのがぴったりであるが、今回の富士山の登録推薦書は、文化遺産としての登録であり、ⅶ)からⅹ)は、自然遺産の適用される評価基準であり、これは使用できないことになり、結果として、ⅲ)とⅳ)が曖昧な形で併存しているように思われる。現在、評価基準については、文化(ⅰ→ⅵ)と自然(ⅶ→ⅹ)分けられている。しかしこれを分けないで、両方に共通して適用する案が浮上しているようである。できれば富士山は、このⅶ)で登録するのが一番妥当であると思われる。このことは西村氏もデスカッションの中で、ⅶ)で登録すべきという話が出ていることを語っていた。

今回の推薦書の概要を読んで、私の根本的疑問は、日本人の山岳信仰の説明や掘り下げが少ないと思ったことだ。これは勘ぐった見方をすれば、平泉で「浄土思想」で苦労をしたので、文化庁自身が日本固有の宗教観などに排除の論理が働いたのではないかと思えた。むしろ外国から来た文化を大らかに受容して、新しい文化を誕生させるというのは日本の文化の特徴である。その意味で山岳信仰として「神仏習合」や「修験道」の誕生は、日本人の宗教観や思考法に決定的な影響を及ぼした出来事である。そうすると、ⅲ)のみで成り立つのではないかと思うのである。

完全無欠に思われる富士山でも、いざ世界遺産登録となると、様々な問題があることが、分かった。それでも川勝平太静岡県知事の強いリーダーシップ下、静岡県(山梨県も)の真剣な取組姿勢には好感が持てた。

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「平清盛」特別展で平家納経を読む ニュース記事に関連したブログ

2012/01/17 21:36

 

大河ドラマの「平清盛」を記念して開催されている「平清盛 特別展」を見に行った。私の目当ては「国宝 平家納経」である。周知のように、この平家納経は、清盛が一族の繁栄を祈って、厳島神社に奉納した三十三巻におよぶ経典である。

 

清盛以下平家の一門が、それぞれ法華経の二十八巻に、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経、願文(清盛がこの平家納経の本意を書き残したもの)五巻を、精魂込めて、書写したものである。

 

写経は、最高の功徳を積む方法と言われるものだが、それでも平家一門の栄華は、清盛の没後を境に急速に萎んで、ついには壇ノ浦の海のもくずと消え失せてしまう。

 

そして今では、滅び去った平家のリーダー清盛の遺骨が、どこに埋葬されている事すら解らなくなってしまっているのである。この部分については、中尊寺金色堂に、終の棲家を置く、初代藤原清衡以下奥州藤原氏四代と比べると、切ない気がしてくる。

 

それでも、平清衡という稀代の英雄の事跡は、この平家納経の字の間に間に、あるいは海に向かって建つ厳島神社の眩いばかりの荘厳の中に大輪の華として咲き誇っているのである。

 

私は、清盛筆と言われる願文の前に立ち、しばし茫然となって時を忘れてしまった。一字一句、清盛が精魂込めて書写している姿が浮かんだ。

 

この願文には、次のような下りがある。

 

「社伝によれば、当社の大明神は、観世音菩薩の化身と申します。又、むかし一人の僧侶が、その弟子に次のように語ったとのことです。

 

『悟りの境地を得たいと願う者は、この社に祈念すれば、必ずその境地を得られるであろう。』この言葉を聞いた時から、ひたすらこの言葉を信じて、大明神に帰依してきました。ですので、こうして御社の前に、ひれ伏している次第なのです。」

 

考えてみれば、平家の栄華は、海によってもたらされたものである。海を支配するひとつの象徴として「厳島神社」はある。海によって日宋貿易で巨万の利を手にした清盛は、これからの政権都市というものが、海に向かって開かれた都市でなければと思い、京都から福原(神戸)に都を遷すことを考えたのである。

 

今回の「清盛展」では、その辺りの、清盛の発想の新しさを伝える側面が少し足りなかったように思う。

 

ともかく、清盛にこれまで被せられてきた負のイメージというものがある。それは平家物語史観ともいうべき偏見そのものだと思う。清盛が貴族文化に染まり過ぎて贅沢三昧となり、奢れる者となって滅んだとかいうあれである。

 

今後、大河ドラマ「平清盛」が、直接的なきかっけとなって、清盛という人物のユニークさや先見性が喧伝されて、清盛に対する偏見が取り除かれることを期待したいものだ。

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大河ドラマ「平清盛」論 3 信長張りの「うつけ清盛」への違和感 ニュース記事に関連したブログ

2012/01/16 00:22

 

清盛第二話の正直な感想を書きます。第二話は、うつけ者として名高い織田信長のイメージを、清盛に移植したような若き日の清盛像だった。

しかも、第二話で早くも、シナリオの破綻は、もう隠しようがないところまで来てしまった。まず、第二話の前半で、清盛は織田信長張りのうつけ者として博打場で大暴れをしたかと思えば、突然正義に目覚めたように、白河院の殺生禁断の政策に楯突いて直談判に向かうという変身ぶり。

 

話は、家来のスズキマルの父親(漁師の長)が殺生禁断を破って捕まったことに憤り、その悪政を批判し、白河院にうつけの格好で直談判にゆくというもの。この清盛の意味不明な変身ぶりは、劇としてのリアリティの欠如が甚だしい。

驚くのは、院が信長バリのうつけの格好の清盛を殿中に通して、拝謁を許すシーンだ。さらに驚くのは、白河院が、その場で、実母の白拍子(舞子)を殺害したことを白状し、清盛に自分が父であることを明かすシーン。殿中で母の殺害、そしてお前の父だと名乗る白河院。自由に創作していいとしても、アホ臭いほど無謀な「虚」そのものである。

ここで殺生禁断について、少し話して置きたい。そもそも漁場(猟場)において「殺生禁断」というものが、発せられる背景には、漁場(猟場)の保護策が本質である。したがって一方では殺生してもよいを集団(漁師・猟師)が生まれることを意味するのであって、江戸期の「生類憐れみの令」と同列に、これを直ちに「悪法」とするような見方は馬鹿げている。漁業権が発生せず、誰もが魚を捕ってよいことになれば、資源はたちまち枯渇して、魚は取り尽くされてしまう。それを防ぐ意図が殺生禁断であって、仏教の慈悲の精神を冠することは、一種の方便というものだ。

清盛の元服も奇をてらいすぎ。何で院の代行で来た公家の前で、馬鹿げた悪態をつく必要があるのか。こんなことがあったはずは絶対にあり得ない。

そもそも平家が、どのようにして海の支配権を獲得し、日宋貿易という金の宝を探り当てて、資本の蓄積を行ったのか、清盛という人物は、そんな平氏の何を受け継ぎ、日本文化に何をもたらしたのか、その辺りを丹念にストーリーとして展開してもらいたいのだが、早くも第二話で、この有様とは、どんなに役者たちががんばっても、難しいとしか、言いようがない。シナリオが破綻しているのだ。

最後の白河院を前にした雅楽の舞も、美しいというよりは、白河院の暗殺未遂事件そのもので、スズキマルが、大刀を外から投げ入れる格好なぞも、ここまで来ると、時代考証もなにも必要なし、というべきありさまだ。もはや手の施しようがない。このままでは、バカらしくなって、途中で見なくなる可能性が高くなった・・・。

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2012年「歌会始め」の歌を鑑賞する ニュース記事に関連したブログ

2012/01/12 22:22

 

 歌会始めを、こんな思いで見る日が来るとは思わなかった。

 
今年の歌会始めには、いつになく昨年春の東日本大震災の影が、今だ長く伸びて、日本人の心を覆っていることを感じた。
 
この中で心に残った歌を拾ってみたい。
 
まず、一般の人の歌では、奈良に住んでいる山崎孝次郎さん(72)が、たまたま被災地に出張で行って、被災していることを知ったのだが、三日間連絡が取れず、たまたま新聞に載った避難所の写真に息子が写っているのを詠んだ歌が、良かった。
 
 相馬市の海岸近くの避難所に吾子ゐるを知り三日眠れず
 
選者の歌では、近年妻で歌人の河野裕子氏(没年2010年夏)に先立たれた歌人永田和宏氏の歌が心に浸みた。
 
 舫ひ解けて静かに岸を離れゆく舟あり人に恋ひつつあれば
 
この歌には、東日本大震災に対する鎮魂歌という側面と、愛する人を亡くした歌人の妻を思う深い愛が、岸を離れるイメージとダブって迫ってくる。岸辺を離れる船は、あの世に亡くなった人を見送る切なさが残る。
 
常陸宮さまが詠まれた歌は、どこか方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして」のリズムを思い起こさせる。
 
 海草(うみくさ)は岸によせくる波にゆらぎ浮きては沈み流れ行くなり
 
岸辺に漂う海草は、人間の運命の儚さ、頼りなさを象徴しているようで、ただただ悲しくなった。本当に人間は、どこから来て、どこへ帰っていくのか、東日本大震災は、日本人がそのアイデンティティを振り返るきっかけとなった。
 
「東日本大震災 以後・以前」という認識を私は強く持っている。このことは、日本人そのものが、この未曾有の大災害を機に新たな人生哲学を構築する義務を負ったということではないだろうか。
 
最後に天皇陛下のストレートな歌を挙げたい。
 
 津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる
 
陛下は、何度も被災地に足を運び、雨天の岸辺に立ち、被災者の冥福を祈っていた光景を思い出す。普段はおとなしい海原が、津波の時には、断崖が岸辺を呑み込む勢いで襲ってきた。時に、自然の猛威は、想像を絶する悲劇を生む。しかしながら、寡黙な陛下の暖かな人間性に、被災地の人々は、どれほど救われたか分からない。
 
陸前の岸辺に植ゑし七千の松されて津波師とせん くりこ
 
来年の歌会始めの「お題」は、「立」だそうだ。「岸」で佇んでいた日本人が、今年から新しい価値観をもって「立」ち上がる姿をみたいものだ。

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平泉・福原・鎌倉 中世の政権都市は海を目指す ニュース記事に関連したブログ

2012/01/11 19:12

 

 

平泉、福原、鎌倉「三都物語」

 

日本が古代から中世に移っていく一時期、日本には、平泉と鎌倉という政権都市があった。平泉と鎌倉の違いは、内陸と海辺の違いである。鎌倉は文化的には、平泉という先行する政権都市のモデルを意識しながら、造営されたことは、永福寺事始などが、奥州遠征後に、速やかに吾妻鏡に掲載されたことなどから、明らかである。

 

さらに鎌倉のモデルを考えれば、平泉以上に影響を受けた都市がある。それは、頼朝がやはり滅ぼした平家の新都「福原」である。まさに、都市論の括りで言えば「平泉→福原→鎌倉」という流れになる。福原は、平家滅亡後、都になることはなかったが、海に近い都市、港のある都市というモデルでは、政権都市鎌倉のモデルになった都市ということができる。考えてみれば、その後、武士の世となった後の政権都市の形は、大阪や江戸にも共通するように、海に面した都市が選ばれるようになる。

 

平泉と福原と鎌倉、この三都の主に共通するところは、外国の交易(特に日宋貿易)を積極的に行ったことである。この中で、地形的に見て平泉は内陸にあるため北上川が太平洋に注いでいるとは言え、海洋交易には、福原、鎌倉と比べると不利な立地にあった。

 

その点、鎌倉と福原は地形が非常によく似ている。地図を見ていると背後に山があり、丸みを帯びたなだらかな湾があり、交易する港も配置されている。

 

その後、武士の政権都市は、大阪、江戸と移っていくが、海浜型の首都の形は、福原にあると、言っても過言ではない気がする。そこで本稿では、清盛の構想した都福原を中心に、語ってみたい。

 

清盛と海

 

2012年のNHK大河ドラマは「平清盛」に決まった。このドラマのテーマのひとつは、清盛と海の関係に焦点を当てたものだということだ。清盛(あるいは平家)と海の関係は、非常に深いものがある。思いついただけでも、「日宋貿易」、「厳島神社」、「福原遷都」、「屋島の合戦」、「壇ノ浦の戦い」などが次々と浮かんでくる。

 

第一の日宋貿易を考えてみる。清盛は、それまで博多に独占されてきた国際貿易港を、より身近なものにしようと考えた。日宋貿易の利潤を考えれば、当然港は、近ければ近い程よい。そこで瀬戸内海の安芸国の国主である立場を活かし、瀬戸内航路を整備することにした。清盛が厳島神社を崇敬した背景には、清盛独特の合理精神が働いていたと考えられる。

 

つまり清盛が厳島神社をこれほど大切にした背景には、それまで海賊などが横行していた瀬戸内海全体の支配権を完全に掌握し、より安全な海路を開こうとした清盛の交易国家構想が見えてくる。貿易→海路と来れば、次ぎに来るのは、港である。それが福原の大輪田泊(おおわだのとまり)や経島(きょうじま)である。このように考えてみると、清盛という人物が、それまでの古代国家日本の概念をおおきく越えた新しい国家像をもっていたことが、はっきりと見えてくる。

 

清盛の「海浜型首都構想」

 

清盛の構想を首都論の立場でみれば、「奈良」→「京都」と引き継がれてきた「内陸型の首都」を、初めて海洋に面した「福原」という「海浜型首都」を構想した動きとして注目される。これは、王朝政治の絶頂にあった藤原道長、頼通親子が、都と離れた宇治川の畔に「宇治殿」という別業を構えて、時として政治の中心地と一定の距離を置いたことを、遙かに越えるスケールの発想だ。もちろん重要なのは「海浜型首都」という構想である。そしてこれは頼朝の「鎌倉」、秀吉の「大阪」、家康の「江戸」として受け継がれていくのである。

 

清盛の発想の斬新さは、世界的に見て、極東の辺境の島国に過ぎない小国日本が、律令制度という古代国家という呪縛を越えて、中世の扉をこじ開けようとした日本的アイデンティティの発露(あるいは日本精神)と考えられなくもない。

 

清盛は端的に「これからの首都は海の側でなければ始まらない。」と考えたのだろう。これは政治というものが、何でもかんでも、儀式やしきたり、風習といった古い祭式に雁字搦(がんじがら)めになっていることから、日本そのものを新しい国に変えていこうとの強い思いがあったのだろう。

 

しかしながら清盛は、西洋型の力ずくの革命ではなく、日本の伝統的な朝廷制度は存続させた上で、それまでの藤原氏に清盛一門がとって代わって、朝廷制度を利用しようとしたもののように思われる。

 

福原から鎌倉へ

 

高橋昌明氏は「平家の群像」(岩波新書 2009年刊)の中で、持論の「六波羅幕府論」を簡潔に次のように説明している。

「清盛の福原居住が、京都不在のマイナスを差し引いても、平家の威信や自立を保持するのに有効な手段だった事実は疑えない。筆者はこの福原と六波羅の二拠点で構成された平家権力を六波羅幕府と呼んでいる。鎌倉幕府に先行する史上初の武家政権である。」(前掲書 16頁)

 

高橋氏の「六波羅幕府論」を要約すれば、清盛が目指したのは、六波羅に政庁を置いて、権力者の清盛は離れた福原で朝廷に睨みを利かすという形である。この発想は頼朝に受け継がれ、六波羅は鎌倉時代に入っても、そのまま活用され、頼朝は鎌倉をほとんど離れなかった。承久の乱後は、行政機能が強化されて「六波羅探題」と呼ばれた。

 

以上、頼朝は、清盛の構想した形を受け継いで、鎌倉幕府を開創したとする高橋氏の説は、おおむね首肯できる。

 

平家の滅亡と福原遷都

 

平家一門は、頼朝の弟義経の活躍もあって、皮肉にも清盛が愛した海の戦で敗れてしまう。福原に近い須磨での敗北(1184:一ノ谷合戦)、そして四国に渡って屋島合戦(1185)、最後には長門の壇ノ浦合戦(1185)である。あっけない最期であった。

 

頼朝は、福原遷都という清盛の挫折(失敗)から学んだのだろうか。鎌倉を開いた頼朝は、禁欲的とも言える態度で、鎌倉の地からほとんど離れず、親鎌倉幕府の公家たちを傀儡として動かすことで、日本全国に号令をかける政治手法を用いた。

 

それにしても謎なのは、賢明なはずの清盛が、せっかく自身の構想力で確立させた「六波羅幕府」の形を崩し、福原遷都を強行したことである・・・。

 

参考文献

 

高橋昌明「平家の群像」(岩波新書 2009年刊)

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