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「平清盛」特別展で平家納経を読む ニュース記事に関連したブログ

2012/01/17 21:36

 

大河ドラマの「平清盛」を記念して開催されている「平清盛 特別展」を見に行った。私の目当ては「国宝 平家納経」である。周知のように、この平家納経は、清盛が一族の繁栄を祈って、厳島神社に奉納した三十三巻におよぶ経典である。

 

清盛以下平家の一門が、それぞれ法華経の二十八巻に、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経、願文(清盛がこの平家納経の本意を書き残したもの)五巻を、精魂込めて、書写したものである。

 

写経は、最高の功徳を積む方法と言われるものだが、それでも平家一門の栄華は、清盛の没後を境に急速に萎んで、ついには壇ノ浦の海のもくずと消え失せてしまう。

 

そして今では、滅び去った平家のリーダー清盛の遺骨が、どこに埋葬されている事すら解らなくなってしまっているのである。この部分については、中尊寺金色堂に、終の棲家を置く、初代藤原清衡以下奥州藤原氏四代と比べると、切ない気がしてくる。

 

それでも、平清衡という稀代の英雄の事跡は、この平家納経の字の間に間に、あるいは海に向かって建つ厳島神社の眩いばかりの荘厳の中に大輪の華として咲き誇っているのである。

 

私は、清盛筆と言われる願文の前に立ち、しばし茫然となって時を忘れてしまった。一字一句、清盛が精魂込めて書写している姿が浮かんだ。

 

この願文には、次のような下りがある。

 

「社伝によれば、当社の大明神は、観世音菩薩の化身と申します。又、むかし一人の僧侶が、その弟子に次のように語ったとのことです。

 

『悟りの境地を得たいと願う者は、この社に祈念すれば、必ずその境地を得られるであろう。』この言葉を聞いた時から、ひたすらこの言葉を信じて、大明神に帰依してきました。ですので、こうして御社の前に、ひれ伏している次第なのです。」

 

考えてみれば、平家の栄華は、海によってもたらされたものである。海を支配するひとつの象徴として「厳島神社」はある。海によって日宋貿易で巨万の利を手にした清盛は、これからの政権都市というものが、海に向かって開かれた都市でなければと思い、京都から福原(神戸)に都を遷すことを考えたのである。

 

今回の「清盛展」では、その辺りの、清盛の発想の新しさを伝える側面が少し足りなかったように思う。

 

ともかく、清盛にこれまで被せられてきた負のイメージというものがある。それは平家物語史観ともいうべき偏見そのものだと思う。清盛が貴族文化に染まり過ぎて贅沢三昧となり、奢れる者となって滅んだとかいうあれである。

 

今後、大河ドラマ「平清盛」が、直接的なきかっけとなって、清盛という人物のユニークさや先見性が喧伝されて、清盛に対する偏見が取り除かれることを期待したいものだ。

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大河ドラマ「平清盛」論 3 信長張りの「うつけ清盛」への違和感 ニュース記事に関連したブログ

2012/01/16 00:22

 

清盛第二話の正直な感想を書きます。第二話は、うつけ者として名高い織田信長のイメージを、清盛に移植したような若き日の清盛像だった。

しかも、第二話で早くも、シナリオの破綻は、もう隠しようがないところまで来てしまった。まず、第二話の前半で、清盛は織田信長張りのうつけ者として博打場で大暴れをしたかと思えば、突然正義に目覚めたように、白河院の殺生禁断の政策に楯突いて直談判に向かうという変身ぶり。

 

話は、家来のスズキマルの父親(漁師の長)が殺生禁断を破って捕まったことに憤り、その悪政を批判し、白河院にうつけの格好で直談判にゆくというもの。この清盛の意味不明な変身ぶりは、劇としてのリアリティの欠如が甚だしい。

驚くのは、院が信長バリのうつけの格好の清盛を殿中に通して、拝謁を許すシーンだ。さらに驚くのは、白河院が、その場で、実母の白拍子(舞子)を殺害したことを白状し、清盛に自分が父であることを明かすシーン。殿中で母の殺害、そしてお前の父だと名乗る白河院。自由に創作していいとしても、アホ臭いほど無謀な「虚」そのものである。

ここで殺生禁断について、少し話して置きたい。そもそも漁場(猟場)において「殺生禁断」というものが、発せられる背景には、漁場(猟場)の保護策が本質である。したがって一方では殺生してもよいを集団(漁師・猟師)が生まれることを意味するのであって、江戸期の「生類憐れみの令」と同列に、これを直ちに「悪法」とするような見方は馬鹿げている。漁業権が発生せず、誰もが魚を捕ってよいことになれば、資源はたちまち枯渇して、魚は取り尽くされてしまう。それを防ぐ意図が殺生禁断であって、仏教の慈悲の精神を冠することは、一種の方便というものだ。

清盛の元服も奇をてらいすぎ。何で院の代行で来た公家の前で、馬鹿げた悪態をつく必要があるのか。こんなことがあったはずは絶対にあり得ない。

そもそも平家が、どのようにして海の支配権を獲得し、日宋貿易という金の宝を探り当てて、資本の蓄積を行ったのか、清盛という人物は、そんな平氏の何を受け継ぎ、日本文化に何をもたらしたのか、その辺りを丹念にストーリーとして展開してもらいたいのだが、早くも第二話で、この有様とは、どんなに役者たちががんばっても、難しいとしか、言いようがない。シナリオが破綻しているのだ。

最後の白河院を前にした雅楽の舞も、美しいというよりは、白河院の暗殺未遂事件そのもので、スズキマルが、大刀を外から投げ入れる格好なぞも、ここまで来ると、時代考証もなにも必要なし、というべきありさまだ。もはや手の施しようがない。このままでは、バカらしくなって、途中で見なくなる可能性が高くなった・・・。

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2012年「歌会始め」の歌を鑑賞する ニュース記事に関連したブログ

2012/01/12 22:22

 

 歌会始めを、こんな思いで見る日が来るとは思わなかった。

 
今年の歌会始めには、いつになく昨年春の東日本大震災の影が、今だ長く伸びて、日本人の心を覆っていることを感じた。
 
この中で心に残った歌を拾ってみたい。
 
まず、一般の人の歌では、奈良に住んでいる山崎孝次郎さん(72)が、たまたま被災地に出張で行って、被災していることを知ったのだが、三日間連絡が取れず、たまたま新聞に載った避難所の写真に息子が写っているのを詠んだ歌が、良かった。
 
 相馬市の海岸近くの避難所に吾子ゐるを知り三日眠れず
 
選者の歌では、近年妻で歌人の河野裕子氏(没年2010年夏)に先立たれた歌人永田和宏氏の歌が心に浸みた。
 
 舫ひ解けて静かに岸を離れゆく舟あり人に恋ひつつあれば
 
この歌には、東日本大震災に対する鎮魂歌という側面と、愛する人を亡くした歌人の妻を思う深い愛が、岸を離れるイメージとダブって迫ってくる。岸辺を離れる船は、あの世に亡くなった人を見送る切なさが残る。
 
常陸宮さまが詠まれた歌は、どこか方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして」のリズムを思い起こさせる。
 
 海草(うみくさ)は岸によせくる波にゆらぎ浮きては沈み流れ行くなり
 
岸辺に漂う海草は、人間の運命の儚さ、頼りなさを象徴しているようで、ただただ悲しくなった。本当に人間は、どこから来て、どこへ帰っていくのか、東日本大震災は、日本人がそのアイデンティティを振り返るきっかけとなった。
 
「東日本大震災 以後・以前」という認識を私は強く持っている。このことは、日本人そのものが、この未曾有の大災害を機に新たな人生哲学を構築する義務を負ったということではないだろうか。
 
最後に天皇陛下のストレートな歌を挙げたい。
 
 津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる
 
陛下は、何度も被災地に足を運び、雨天の岸辺に立ち、被災者の冥福を祈っていた光景を思い出す。普段はおとなしい海原が、津波の時には、断崖が岸辺を呑み込む勢いで襲ってきた。時に、自然の猛威は、想像を絶する悲劇を生む。しかしながら、寡黙な陛下の暖かな人間性に、被災地の人々は、どれほど救われたか分からない。
 
陸前の岸辺に植ゑし七千の松されて津波師とせん くりこ
 
来年の歌会始めの「お題」は、「立」だそうだ。「岸」で佇んでいた日本人が、今年から新しい価値観をもって「立」ち上がる姿をみたいものだ。

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平泉・福原・鎌倉 中世の政権都市は海を目指す ニュース記事に関連したブログ

2012/01/11 19:12

 

 

平泉、福原、鎌倉「三都物語」

 

日本が古代から中世に移っていく一時期、日本には、平泉と鎌倉という政権都市があった。平泉と鎌倉の違いは、内陸と海辺の違いである。鎌倉は文化的には、平泉という先行する政権都市のモデルを意識しながら、造営されたことは、永福寺事始などが、奥州遠征後に、速やかに吾妻鏡に掲載されたことなどから、明らかである。

 

さらに鎌倉のモデルを考えれば、平泉以上に影響を受けた都市がある。それは、頼朝がやはり滅ぼした平家の新都「福原」である。まさに、都市論の括りで言えば「平泉→福原→鎌倉」という流れになる。福原は、平家滅亡後、都になることはなかったが、海に近い都市、港のある都市というモデルでは、政権都市鎌倉のモデルになった都市ということができる。考えてみれば、その後、武士の世となった後の政権都市の形は、大阪や江戸にも共通するように、海に面した都市が選ばれるようになる。

 

平泉と福原と鎌倉、この三都の主に共通するところは、外国の交易(特に日宋貿易)を積極的に行ったことである。この中で、地形的に見て平泉は内陸にあるため北上川が太平洋に注いでいるとは言え、海洋交易には、福原、鎌倉と比べると不利な立地にあった。

 

その点、鎌倉と福原は地形が非常によく似ている。地図を見ていると背後に山があり、丸みを帯びたなだらかな湾があり、交易する港も配置されている。

 

その後、武士の政権都市は、大阪、江戸と移っていくが、海浜型の首都の形は、福原にあると、言っても過言ではない気がする。そこで本稿では、清盛の構想した都福原を中心に、語ってみたい。

 

清盛と海

 

2012年のNHK大河ドラマは「平清盛」に決まった。このドラマのテーマのひとつは、清盛と海の関係に焦点を当てたものだということだ。清盛(あるいは平家)と海の関係は、非常に深いものがある。思いついただけでも、「日宋貿易」、「厳島神社」、「福原遷都」、「屋島の合戦」、「壇ノ浦の戦い」などが次々と浮かんでくる。

 

第一の日宋貿易を考えてみる。清盛は、それまで博多に独占されてきた国際貿易港を、より身近なものにしようと考えた。日宋貿易の利潤を考えれば、当然港は、近ければ近い程よい。そこで瀬戸内海の安芸国の国主である立場を活かし、瀬戸内航路を整備することにした。清盛が厳島神社を崇敬した背景には、清盛独特の合理精神が働いていたと考えられる。

 

つまり清盛が厳島神社をこれほど大切にした背景には、それまで海賊などが横行していた瀬戸内海全体の支配権を完全に掌握し、より安全な海路を開こうとした清盛の交易国家構想が見えてくる。貿易→海路と来れば、次ぎに来るのは、港である。それが福原の大輪田泊(おおわだのとまり)や経島(きょうじま)である。このように考えてみると、清盛という人物が、それまでの古代国家日本の概念をおおきく越えた新しい国家像をもっていたことが、はっきりと見えてくる。

 

清盛の「海浜型首都構想」

 

清盛の構想を首都論の立場でみれば、「奈良」→「京都」と引き継がれてきた「内陸型の首都」を、初めて海洋に面した「福原」という「海浜型首都」を構想した動きとして注目される。これは、王朝政治の絶頂にあった藤原道長、頼通親子が、都と離れた宇治川の畔に「宇治殿」という別業を構えて、時として政治の中心地と一定の距離を置いたことを、遙かに越えるスケールの発想だ。もちろん重要なのは「海浜型首都」という構想である。そしてこれは頼朝の「鎌倉」、秀吉の「大阪」、家康の「江戸」として受け継がれていくのである。

 

清盛の発想の斬新さは、世界的に見て、極東の辺境の島国に過ぎない小国日本が、律令制度という古代国家という呪縛を越えて、中世の扉をこじ開けようとした日本的アイデンティティの発露(あるいは日本精神)と考えられなくもない。

 

清盛は端的に「これからの首都は海の側でなければ始まらない。」と考えたのだろう。これは政治というものが、何でもかんでも、儀式やしきたり、風習といった古い祭式に雁字搦(がんじがら)めになっていることから、日本そのものを新しい国に変えていこうとの強い思いがあったのだろう。

 

しかしながら清盛は、西洋型の力ずくの革命ではなく、日本の伝統的な朝廷制度は存続させた上で、それまでの藤原氏に清盛一門がとって代わって、朝廷制度を利用しようとしたもののように思われる。

 

福原から鎌倉へ

 

高橋昌明氏は「平家の群像」(岩波新書 2009年刊)の中で、持論の「六波羅幕府論」を簡潔に次のように説明している。

「清盛の福原居住が、京都不在のマイナスを差し引いても、平家の威信や自立を保持するのに有効な手段だった事実は疑えない。筆者はこの福原と六波羅の二拠点で構成された平家権力を六波羅幕府と呼んでいる。鎌倉幕府に先行する史上初の武家政権である。」(前掲書 16頁)

 

高橋氏の「六波羅幕府論」を要約すれば、清盛が目指したのは、六波羅に政庁を置いて、権力者の清盛は離れた福原で朝廷に睨みを利かすという形である。この発想は頼朝に受け継がれ、六波羅は鎌倉時代に入っても、そのまま活用され、頼朝は鎌倉をほとんど離れなかった。承久の乱後は、行政機能が強化されて「六波羅探題」と呼ばれた。

 

以上、頼朝は、清盛の構想した形を受け継いで、鎌倉幕府を開創したとする高橋氏の説は、おおむね首肯できる。

 

平家の滅亡と福原遷都

 

平家一門は、頼朝の弟義経の活躍もあって、皮肉にも清盛が愛した海の戦で敗れてしまう。福原に近い須磨での敗北(1184:一ノ谷合戦)、そして四国に渡って屋島合戦(1185)、最後には長門の壇ノ浦合戦(1185)である。あっけない最期であった。

 

頼朝は、福原遷都という清盛の挫折(失敗)から学んだのだろうか。鎌倉を開いた頼朝は、禁欲的とも言える態度で、鎌倉の地からほとんど離れず、親鎌倉幕府の公家たちを傀儡として動かすことで、日本全国に号令をかける政治手法を用いた。

 

それにしても謎なのは、賢明なはずの清盛が、せっかく自身の構想力で確立させた「六波羅幕府」の形を崩し、福原遷都を強行したことである・・・。

 

参考文献

 

高橋昌明「平家の群像」(岩波新書 2009年刊)

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大河ドラマ「平清盛」論 2 清盛御落胤説への違和感 ニュース記事に関連したブログ

2012/01/11 11:09

 

第一話を観た。ファーストシーンは、鎌倉の勝長寿院の場面。亡父義朝の供養でもしているのか。そのところに、男勝りの風体の北条政子が、ひとり馬で飛び込んで来て、壇の裏で頼経率いる鎌倉軍が平家を滅ぼしたことを伝える。(何やら、政子役の杏の劇画タッチが奇妙で首を傾げてしまう。)一同が、口々に清盛の悪口をいうのを、頼朝が諫めて、「鎮まれ、あの人の存在なくして、武士の世は来なかった」という趣旨の発言をする。この辺りに、清盛研究の第一人者で今回の大河の時代考証を担当している高橋昌明氏(神戸大学名誉教授)の影が見えるようだ。
 
第一話から、いきなり虚と実の狭間にある清盛出生の秘密に触れる、そもそも、清盛が白川院の子であるかどうかは意見の分かれるところ。時代考証の高橋昌明氏は、清盛の御落胤説をとる研究者。一方、五味文彦氏(東大名誉教授)は、その考えに否定的な立場である。私も、この白川院の子という出生譚は、怪しいと考えている。
 
清盛御落胤説は、新興の武士階級のコンプレックスと貴種への憧憬のようなものが作用して出来た一種の時代神話や伝説の類(たぐい)である気がしている。このことの論証は、いつかキチンと行ってみるつもりだ。
 
ところで、伊東四朗氏演じる白河法皇の下品さは、ちっとも王朝の気品を感じさせるところがない。所作のせいだろうか。失礼かもしれないが、伊東氏の演技は、役者の地で演じているのか、雅感がちっともない。それに、自分の子を産んだ白拍子の命を奪う命令を出して、宮殿内で、清盛の生みの母の命を奪うなど、この血生臭さは、とんでもない話だ。この辺り、この筋立てはメチャクチャだ!!しかも、白川院の面前で、弓をもって串刺しとは、何たること!!馬鹿げている。
 
・・・という一話の感じ。早、この大河、敗れたりか・・・?
 
後で聞くと、17%台と、視聴率も随分低いようだ。劇画調で、歴史的リアリティを感じさせないシナリオと演出を問題にすべきかもしれない。主役クラスの武者たちが、細面で、うらなり顔、武士の顔ではないのが大いに気になるところだ。
 
参考文献
 
高橋昌明「平清盛 福原の夢」(講談社選書 2007年)
五味文彦「平 清盛」(吉川弘文館 1999年)

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NHK大河ドラマ「平清盛」論 1 新しい清盛像構築の前提条件とは?!

2012/01/10 22:30

 

 

 

平家物語史観を越えて

 

2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」に注目したい。その理由は、これまでともすれば「平家物語史観」ともいうような「清盛=悪人」というイメージで、落とし込められてきた「清盛」の歴史的再評価があるのではないか、との期待感を感じるからだ。

いわゆる「平家物語史観」について、簡単に触れておきたい。その史観の特徴は、大きく言ってふたつある。第一は、清盛のイメージが王権を盗もうとした大悪人であることを強調していること。第二に京都から福原に遷都しようとしたことがいかに問題であったかを物語の中で順次語っていく意図的論理性にある。要するに、平家物語史観とは、旧来の公家政権が醸成してきた京都中心の保守的な歴史観に、根本的変革をもたらそうとした清盛の政治に対し、ある種「否定(ノン)的意図」をもって書かれた「歴史教訓物語」ということになる。

もっと言えば、平家物語とは、武士の世界に突入しようとする歴史の変遷に対する旧勢力の嫌悪感そのものである。平家物語の中には、旧勢力としての公家たちの武士階級の台頭に対する危機感が随所に表現されている。

 

またそれは、身分の低い清盛に象徴される武士階級が分不相応にも、貴族趣味的文化に着目し、それまで藤原摂関家が独占してきた「政治の形」を盗もうとしたことに対しての強烈な差別的反発心でもある。

 

確かに、清盛は、藤原氏のように、高倉天皇に自分の娘徳子を入内(じゅだい=嫁入り)させ、今上天皇(安徳)の外祖父となり、藤原氏が独占してきた立場を奪おうとした。平家物語史観で、一番強烈なのは、「福原遷都」に対する反発である。つまり、慣れ親しんできた京都から福原に遷都したことに対する「恨み辛み」という思いの側面なのである。

その意味で、平家物語史観は、平家が滅び去って、鎌倉幕府の時代に移っても、鎌倉の権力を握った連中にも強い強制力として働いた可能性がある。それは一種の「清盛のようになるな」という政治的イデオロギー(あるいは歴史的教訓)となったということになる。考えてみれば、平氏政権以降、日本文化から、装飾的な文化を創出することは御法度のようになってしまった感がある・・・。

周知のように平家物語の作者は、吉田兼好が著した徒然草二二十六段の説を受け入れるならば、信濃前司行長ということになる。この人物は、この時代の第一級の歴史史料と言われる「玉葉」を記した九条兼実の家人であったようだ。後には、入道となり、兼実の弟の慈円に扶持された人物という説があるが、生没年は不詳で、謎の人物である。

分かっていることは、兄で政治家の兼実や弟で僧侶の慈円のような公家の頂点に立つ保守派のインテリに近い歴史観をもっていたということにある。

兼実は良くも悪くも「政治家」である。後に鎌倉幕府を開く頼朝と親和的となり、頼朝の推挙によって摂政(1185)、後に関白(91)となって政治家としての生命を保った人物である。また彼は京の都に対し「愛郷心」のような心根を持ち、清盛の福原遷都には強い反発を示した。律令制度においても下流の武士階級に対しては、差別的な言辞(確か、義経主従佐藤継信、忠信兄弟の任官の時には「ネコになる」と小馬鹿にした)を弄するなど、底意地の悪さを感じさせる人物だ。

それでも、平家物語の時代の情報を、誰よりも集められることを考えると、信濃前司行長の名は、実は兼実のペンネームであった可能性だってあるかもしれない。

また兼実には、天台宗の座主に就く慈円という弟がいた。慈円の「愚管抄」には、「保元の乱」を見て、武士の時代の始まりとみるような真っ当な歴史観を伺える部分もあるが、天台座主という仏門の頂点に立つ高僧思索したという限界点が、はっきりと見える。京都の摂関家で育ったエリートが、己の立場を、ドロップアウトしない限り、平家政権あるいは清盛の政治的先見性を正しく理解することは難しかったと思う。

 

ともかく、手垢の付いた「平家物語史観」を越える新しい「平清盛」を見たいものだ。

 

次回は第一話の感想を書きます。乞うご期待。

 

能福寺の清盛像

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あの天才スティーブ・ジョブスが死んだ!? 点と点を結びつける天才ジョブス

2011/10/06 12:12

 

スティーブ・ジョブスの逝去がアップルより唐突に10月6日午前9時前、発表された。

この一月、治療に専念するという発表。そして8月、CEO退任と、すい臓癌が進行いるのだろうと、悪い予感を抱いた。しかしこの間、当のアップルは、石油メジャー企業を時価総額で上回って世界一になった。

彼の天才を疑う者はいない。ジョブスの天才とはなにか。彼はけっして、GEの創業者エジソンのような創造の天才ではないかもしれない。反面彼の製品デザインには、あらゆる製品に、独特のポップな感覚やシンプルな美しさが漂っている。

ジョブスがジョブスたる由縁は、とにかくiPodiPhoneやiPadを見れば一目瞭然なように世界中の消費者が、こんなものがあったら、是非欲しいと思わせる製品を、魔法使いのように、目の前に提示してくれることだったかもしれない。

70年代のマッキントッシュ・コンピュータに始まる彼の成功の背後には、常に彼一流の美意識と感性が働いていた。ジョブスの言葉に「点と点を結ぶ」という発想がある。これはひとつの技術と別の技術を結んで新しい技術に統合して新しい製品を創り上げるアップルのやり方として結実している。

考えれてみると、現在世界を席巻しているiphone4は、特にジュッブスが新しい技術を開発して発表した製品ではない。言うならば、この製品は世にあるコンピュータ技術の点と点をより複雑に結び付け、時にはライバル企業Googleの検索技術や地図情報ソフトを使用可能にして携帯電話をコンピュータ化するということで成功した製品だ。

またiphone4の成功の背後には、開発言語をオープン化したことも大きかった。そこで、iphone4に夢を抱く世界中のソフト開発者は、凄まじい勢いで、このユニークな製品で使用できるソフトの開発競争を行った。それもこれも、スティーブ・ジョブスというカリスマ経営者があっての世論喚起だった。ジョブスは、製品を作るだけではなく、iphoneという市場を創り上げたことにもなる。

今回、死亡発表の前日、新しいiphoneの発表がなされた。しかし残念なことに、発売が期待されたiphone5ではなく、マイナーチェンジのiphone4sとなった。これはアップルの今後を暗示させる象徴的な出来事になるかもしれない。これほどインパクトの薄いコンセプトの製品であれば、ジョブスなら市場に投入しなかった可能性もある。今回の発表は、はっきり言って、消費者をわくわくさせるものがない。私たちは、これからもっと、痛感させられるかもしれない。製品を発表するたび、世を驚かせて、どうしても新しいアップル製品が欲い、と思わせる天才ティーブ・ジョブスは、もういない、ということを・・・。合掌。

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平泉よ永遠なれ 芭蕉は金色堂に永遠を見た

2011/09/28 17:13

 

2011年9月19日、台風16号が迫っている中尊寺を参詣した。

この日で、あの3.11の大災害から、早半年の歳月が過ぎていることになる。

中尊寺に行くと、今にも泣きそうな鉛色の空から時々、雨が降っていた。金色堂に入ると、多くの人の感嘆のため息が聞こえてきた。文豪井上靖は、「平泉紀行」の中で、金色堂を「黄金の小函(こばこ)」と呼んだ。誠に小さな建物だが、ここには永遠の命が息づいており、広大無辺な拡がりを持つ宇宙がある。芭蕉は、この金色堂に感嘆して、「五月雨の降り残してや光堂」と詠んだ。

芭蕉の初稿は、「五月雨や年々降りて五百たび」だった。ここには、鞘堂(さやどう)の存在が、句の背後に見えている。初稿は「五百たび」など、やや説明的だ。そこから推敲に推敲くり返し、本稿では、金色堂に五月雨が五百回もアタックしたが、ついにその威光の前に、そこを避けて雨を降らせたというニュアンスが伝わってくる。雨の神さまが、呆れるほどの力が金色堂にはある。芭蕉をこのように思わせる金色堂の威光とは何なのか。それは中尊寺金色堂の一角を「終(つい)の住処」と決めて、生きるがごとく眠っている藤原三代の御魂である。芭蕉は、紛れもなく、小さな堂内で金色堂の永遠なる魂に触れたのである。

不思議なことに、東日本大震災という未曾有の大災害から三ヶ月後、平泉はユネスコ世界遺産に登録された。平泉は、岩手・宮城・福島の中間地点に位置することもあり、災害復興の象徴になり得ると言われている。

確かに今から900年近く前、平泉を開創した奥州藤原氏初代藤原清衡は、40年に及ぶ戦乱で亡くなった無数の人々や鳥獣から虫けらに至るまで、命半ばで不本意な死を遂げた御霊を救おうとの願いをもって、この中尊寺を建立したのであった。

かつて、東北の原野に野ざらしとなっていた多くの御魂の救済を誓って建立された中尊寺が、今再び、東日本大震災からの復興の原動力になろうとしている。そのように思った。

 

 

 

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鎌倉御霊神社 奇祭「面掛け行列」考

2011/09/24 21:51

 

鎌倉坂ノ下の御霊神社で、毎年9月18日、「面掛け行列」という奇祭(神奈川県無形文化財)が行われる。

 

江戸時代には、鶴岡八幡宮の祭礼だったようであるが、この祭は、かつて「非人面行列」と言われる祭だった。言い伝えとしては、かつて頼朝が非人の女性を孕 ませたことで、そこで年に一度、無礼講を許して、非人たちを祭に参加させたというものだ。これは行列のハイライトに、阿亀(おかめ)行列があるための「こ じつけ」であるかもしれない。

 

頼朝の妾(めかけ)に有名な「亀の前」がいる。夫頼朝の浮気を知った北条政子は、逆上し、亀の前が囲われていた家来の家を、粉々に破壊してしまう。亀の前は命からがら、逃げたという。

 

吾妻鏡(寿永元年六月一日=1182年6月1日)には、頼朝が伊豆の流人時代から知り合いであった亀の前は、容姿が美しいだけでっはなく、大変心根の優し い女性であったとまで明確に記している。またこの娘の父の名を「良橋太郎入道」としている。亀の前の父は、在家出家者だったと思われるが、身分の低い人物 であったとは考えられない。

 

さて祭の手順であるが、天狗(サルタヒコ)に道案内された神が神社の氏子の待つ辻々を神輿に担がれてご巡幸するというもので、これだけ見れば、ごく一般的な神輿渡御の形式である。

 

問題は、非人の形相の面を付けた10人の異形の神々が、いったい何を象徴しているかという点にある。

 

10の面とは、順番に、爺(じい)、鬼(おに)、異形(いぎょう)、鼻長(はななが)、烏天狗(からすってんぐ)、翁(おきな)、ひょっとこ、福禄(ふくろく)、阿亀(おかめ)、女(とりあげ=産婆の意味か?)の順である。どうも、古い神楽面のようでもある。

 

見ていると、午後二時半過ぎ、行列一行が、神社から大通り(星の井通り)に出て、東に星の井付近まで行列し、戻って西に由比ヶ浜のバス停付近まで行列をして、御霊神社まで戻って終了となる。

 

行列では、行列の9番目に歩く「阿亀(おかめ)」が人気がある。妊娠した大きなお腹を撫でながら、上を向いて歩いていると、沿道から女性が、そのお腹を遠慮なく撫でに来る。安産の御利益があるということだ。

 

この祭を、別の角度で考えてみる。極楽寺周辺から、坂ノ下、長谷と来て、鎌倉大仏のある周辺は、鎌倉においては、忍性(1217-1303)という真言律 宗の偉い僧侶が、社会的弱者を救済するため、病院施設などを建設していた地域である。この一大社会事業には、時の鎌倉幕府も大いに後押しをして、この貧民 救済事業の資金として和賀江島の利権や荘園などを寄進して、忍性の社会事業を大いに助けたことが知られている。大仏前の桑ヶ谷には、ハンセン病患者のため の病院「桑ヶ谷療病所」が存在したこともある。

 

とかく鎌倉は、武家の町鎌倉ということで、血生臭い、御家人同士の死闘のイメージがある。だが、鎌倉という都市は、そのイメージとは、まったく違って、 様々な階層の人間たちが、鎌倉にくれば、何とか暮らしていけるという救済の都市の側面もあったのではないだろうか。祭の行列と一緒に歩きながら、そんなこ とを感じてしまった。

 

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石巻で新しい復興住宅建設に賭ける男 熊谷秋雄氏に聞く

2011/09/24 09:23

 

台風が吹き荒れる9月20日、3.11(東日本大震災)の最大の被災地のひとつである石巻市に向かった。あるユニークな復興住宅を見学するためだ。

 

この住宅建設の中心人物が、熊谷秋雄さん(46)だ。熊谷さんは、日本で唯一、茅葺き屋根の建設と修復を生業とする(有)熊谷産業の代表取締役である。

 

3.11東日本大震災では、自ら被災者となったが、国の壊すための復興住宅建築に疑問を感じた。そこで、自ら復興住宅建設地を手当し、工学院大学と共同で、伝統工法にこだわった恒久型復興住宅のモデルを、石巻市白浜海岸の高台に建設することを決めた。この住宅は9月に棟上げ式が終わり、10月末頃には、完成の運びとなる予定だ。

 

そのユニークな発想­は、法政大学五十嵐敬喜教授が提唱する「総有」的集合住宅として注目されている。所謂、二年で壊すことを前提とした復興住宅から、地域住民の終の住処(ついのすみか)と­なり得る恒常的住居への転換がここにはある。

 

熊谷秋雄さんは、インタビューで、「国に頼らず民間の力を結集すれば、住む被災地住民にとっても、遥かに住み心地がよく、しかも­家賃は安価に提供できる。この白浜復興住宅のモデルを全国に展開していきたい」と明確に語った。

 

ここには、国に頼らない地域独立の精神が脈々と息づいているのを­感じた。

 

 

 

 

 

 

 

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