平泉、福原、鎌倉「三都物語」
日本が古代から中世に移っていく一時期、日本には、平泉と鎌倉という政権都市があった。平泉と鎌倉の違いは、内陸と海辺の違いである。鎌倉は文化的には、平泉という先行する政権都市のモデルを意識しながら、造営されたことは、永福寺事始などが、奥州遠征後に、速やかに吾妻鏡に掲載されたことなどから、明らかである。
さらに鎌倉のモデルを考えれば、平泉以上に影響を受けた都市がある。それは、頼朝がやはり滅ぼした平家の新都「福原」である。まさに、都市論の括りで言えば「平泉→福原→鎌倉」という流れになる。福原は、平家滅亡後、都になることはなかったが、海に近い都市、港のある都市というモデルでは、政権都市鎌倉のモデルになった都市ということができる。考えてみれば、その後、武士の世となった後の政権都市の形は、大阪や江戸にも共通するように、海に面した都市が選ばれるようになる。
平泉と福原と鎌倉、この三都の主に共通するところは、外国の交易(特に日宋貿易)を積極的に行ったことである。この中で、地形的に見て平泉は内陸にあるため北上川が太平洋に注いでいるとは言え、海洋交易には、福原、鎌倉と比べると不利な立地にあった。
その点、鎌倉と福原は地形が非常によく似ている。地図を見ていると背後に山があり、丸みを帯びたなだらかな湾があり、交易する港も配置されている。
その後、武士の政権都市は、大阪、江戸と移っていくが、海浜型の首都の形は、福原にあると、言っても過言ではない気がする。そこで本稿では、清盛の構想した都福原を中心に、語ってみたい。
清盛と海
2012年のNHKの大河ドラマは「平清盛」に決まった。このドラマのテーマのひとつは、清盛と海の関係に焦点を当てたものだということだ。清盛(あるいは平家)と海の関係は、非常に深いものがある。思いついただけでも、「日宋貿易」、「厳島神社」、「福原遷都」、「屋島の合戦」、「壇ノ浦の戦い」などが次々と浮かんでくる。
第一の日宋貿易を考えてみる。清盛は、それまで博多に独占されてきた国際貿易港を、より身近なものにしようと考えた。日宋貿易の利潤を考えれば、当然港は、近ければ近い程よい。そこで瀬戸内海の安芸国の国主である立場を活かし、瀬戸内航路を整備することにした。清盛が厳島神社を崇敬した背景には、清盛独特の合理精神が働いていたと考えられる。
つまり清盛が厳島神社をこれほど大切にした背景には、それまで海賊などが横行していた瀬戸内海全体の支配権を完全に掌握し、より安全な海路を開こうとした清盛の交易国家構想が見えてくる。貿易→海路と来れば、次ぎに来るのは、港である。それが福原の大輪田泊(おおわだのとまり)や経島(きょうじま)である。このように考えてみると、清盛という人物が、それまでの古代国家日本の概念をおおきく越えた新しい国家像をもっていたことが、はっきりと見えてくる。
清盛の「海浜型首都構想」
清盛の構想を首都論の立場でみれば、「奈良」→「京都」と引き継がれてきた「内陸型の首都」を、初めて海洋に面した「福原」という「海浜型首都」を構想した動きとして注目される。これは、王朝政治の絶頂にあった藤原道長、頼通親子が、都と離れた宇治川の畔に「宇治殿」という別業を構えて、時として政治の中心地と一定の距離を置いたことを、遙かに越えるスケールの発想だ。もちろん重要なのは「海浜型首都」という構想である。そしてこれは頼朝の「鎌倉」、秀吉の「大阪」、家康の「江戸」として受け継がれていくのである。
清盛の発想の斬新さは、世界的に見て、極東の辺境の島国に過ぎない小国日本が、律令制度という古代国家という呪縛を越えて、中世の扉をこじ開けようとした日本的アイデンティティの発露(あるいは日本精神)と考えられなくもない。
清盛は端的に「これからの首都は海の側でなければ始まらない。」と考えたのだろう。これは政治というものが、何でもかんでも、儀式やしきたり、風習といった古い祭式に雁字搦(がんじがら)めになっていることから、日本そのものを新しい国に変えていこうとの強い思いがあったのだろう。
しかしながら清盛は、西洋型の力ずくの革命ではなく、日本の伝統的な朝廷制度は存続させた上で、それまでの藤原氏に清盛一門がとって代わって、朝廷制度を利用しようとしたもののように思われる。
福原から鎌倉へ
高橋昌明氏は「平家の群像」(岩波新書 2009年刊)の中で、持論の「六波羅幕府論」を簡潔に次のように説明している。
「清盛の福原居住が、京都不在のマイナスを差し引いても、平家の威信や自立を保持するのに有効な手段だった事実は疑えない。筆者はこの福原と六波羅の二拠点で構成された平家権力を六波羅幕府と呼んでいる。鎌倉幕府に先行する史上初の武家政権である。」(前掲書 16頁)
高橋氏の「六波羅幕府論」を要約すれば、清盛が目指したのは、六波羅に政庁を置いて、権力者の清盛は離れた福原で朝廷に睨みを利かすという形である。この発想は頼朝に受け継がれ、六波羅は鎌倉時代に入っても、そのまま活用され、頼朝は鎌倉をほとんど離れなかった。承久の乱後は、行政機能が強化されて「六波羅探題」と呼ばれた。
以上、頼朝は、清盛の構想した形を受け継いで、鎌倉幕府を開創したとする高橋氏の説は、おおむね首肯できる。
平家の滅亡と福原遷都
平家一門は、頼朝の弟義経の活躍もあって、皮肉にも清盛が愛した海の戦で敗れてしまう。福原に近い須磨での敗北(1184:一ノ谷合戦)、そして四国に渡って屋島合戦(1185)、最後には長門の壇ノ浦合戦(1185)である。あっけない最期であった。
頼朝は、福原遷都という清盛の挫折(失敗)から学んだのだろうか。鎌倉を開いた頼朝は、禁欲的とも言える態度で、鎌倉の地からほとんど離れず、親鎌倉幕府の公家たちを傀儡として動かすことで、日本全国に号令をかける政治手法を用いた。
それにしても謎なのは、賢明なはずの清盛が、せっかく自身の構想力で確立させた「六波羅幕府」の形を崩し、福原遷都を強行したことである・・・。
参考文献
高橋昌明「平家の群像」(岩波新書 2009年刊)
by arthur
大河ドラマ「平清盛」論 2 …